前回書いたのを読み返してみたら、
ちょっと辛辣だったかなあ。
これはあのキャンピングカーyoutuberに『心ないコメント』って言われちゃうんだろうな。
彼氏のほうが前のめりでクラウドファンディングの話をする一方で、
彼女さんが、悠然と微笑みをたたえながら話すさまは、なんか達観した感じで、
2人の価値観に隔たりがあるような気がした。(のは私だけ?)
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アメリカでの心臓移植のための寄付を募る新聞記事。
これは、1歳の女の子のほうの募金活動についての記事だった。
5億円以上という金額も驚いたが(円安のせいもある)、
私が驚いたのは、この記者会見が厚生労働省で行われているということ。
これは、海外渡航して移植手術を受けることは国がらみのことなんだろうか?
この手の活動はてっきり個人単位で『〇〇ちゃんを救う会』を立ち上げて、独自に行うものだと思っていた。
厚生労働省は、海外での移植手術を推奨し、なんらかの便宜が図られてるのだろうか。
・・・
私は、『心臓』という単語を見たり聞いたりするだけで、
体全身が反応してしまい、どうしてもやり過ごすことができない。
もう、30年以上ずっと。
私には、娘が二人いるのだけど、
その前に息子がいた。最初の子ども。
でも彼は、大きな心臓病を抱えて生まれてきて、
生まれてから一度も病院を出ることなく、短い人生を終えた。
手術を受け、成功したと言われたけれど、
目を覚ますことなく翌日に亡くなった。
入院していた病棟は心臓病の子どもばかりで、
赤ちゃんから幼児、小学生までいて、
ほとんどが「心臓に穴があいてる」ので手術をして、元気になって退院していった。
ダウン症のお子さんも何人かいた。
出産後から私はずっと病院に泊まり込んで、
はじめての育児を体験することになったけど、
手術の日まで、不安で不安でたまらない日々だった。
ある日、救急で、2歳くらいの女の子が入院してきた。
まだ若いお母さんは、ほかにも子供がいて、とても大変そうだったけど、
入院には慣れてるみたいだった。
その女の子は、ものすごい悲しい苦しい声でずっと泣いていた。
酸素はあてていたけど、治療らしいことはなくて、
どうしたらいいのかわからない。
とにかく息が苦しそうなのだ。
そのお母さんと話すことがあって、
私は自分の話をした。
生まれたばかりの息子が手術するために入院してること。
ちょっと大きな病気なので、危険率が30%もあること。(ほかの子たちの心臓の穴の手術は危険率5%とかだった)
不安でたまらないこと。など。
そしたら、そのお母さんが、
『手術ができるだけでもうらやましい』
『うちの子、拡張型心筋症で、手術もできないの』
と、さらりと言われて、
え・・・
胸が張り裂けそうになった。
治療法は心臓移植しかなくて、
今は家にいて、呼吸困難で危なくなったときに病院に運ばれるって。
もう、長くないだろうって。
この世で一番不幸だと思ってた自分が恥ずかしくなった。
手術が怖い、不安だ、って言えるだけでも、
このお母さんにとってはうらやましいことなんだと。
その当時だって、募金を募って海外で心臓移植に行く子供はいた。
でも、この2歳の女の子は、その選択はなかった。
お父さんも働いていて、夜遅くに面会に来ていた。
みんなで、一生けん命生きているって感じだった。
あれから・・・
今でも、「心臓」って聞くだけでドキンってなる。
生きられなかった長男のことを思うし、
あの2歳の女の子の悲しい声も思い出す。
亡くなった長男は、、
何万人かに一人の確率で生まれる病気に彼がなったから、ほかの子たちが助かったともいえる。
そういう命の定めだったのだろう。
たぶん、そうなんだと思うことにしている。
それで、心臓移植で海外に行く子たちのニュースを見ると、
いつもすごく複雑な気持ちになる。
親だったら、だれでも、子供が助かる望みがあるのなら、
頭を下げて募金してもらってでも海外に心臓手術を受けに行きたいはず、ってみんな言うけど。
そうだろうか。
心臓移植が必要な小児は年間少なくとも50人はいると言われている。
ああやって募金して海外にわたれる子はほんの一握りなのだ。
そして、当然のことだけど、
心臓移植を待つということは、
どこかから魔法のように心臓が出てくるわけではなくて、
その地に住む同じ位の小さな心臓を持った子供が
脳死状態になることを待ち望むということなのだ。
2008年イスタンブール宣言以降、
移植医療の自国内での自給自足が世界の共通認識になって、
今はアメリカ以外は外国人の移植は受け入れていないし、
アメリカでも外国人枠はごくわずかな現状だ。
日本人患者はかなり病状が悪化してから渡米するので、
移植の順番が早く回ってくるため、
そのぶんアメリカ人で移植を待っていた人たちは理不尽に感じたりするらしい。
また、募金が集まっても渡米前に亡くなったり、
渡米後に移植の待機中に亡くなる子も多い。
そして、無事移植が成功しても急変したり、再手術が必要になったり。
そんなニュースを聞くと、ほんとうに虚しい。
そして、この話になると、必ずといっていいほど、
「日本でもっと移植できるようにするべき」っていう議論になる。
法的には日本でも2010年に臓器提供者の年齢制限が亡くなったので、
小児からの脳死臓器提供は可能になっている。
でも、日本では提供者は本当に少ない。
「もっと増やすための取り組みをすべきだ」っていうけど、
そうなのか?
日本では、
まだ、「脳死は人の死」って思えない人のほうが多いと思う。
まだ心臓が動いているのに、
まだ髪も爪も伸びるのに、
まだ温かいのに、
脳が死んでるからって、
胸を切り開いて心臓を取り出すなんて。
特に子供は脳死判定が難しいと聞く。
意識が戻るかもしれないのに・・・
苦悩しながらも臓器移植を決断できる親はどれくらいいるのだろうか。
アメリカ人の多くは脳死を人の死と受け入れてるのかもしれないけど、
それより、
銃社会なこと、
医療費が高いこと(脳死状態で何日も入院してられない)が、
臓器提供数が多い理由かもしれない。
世界中の国々が、
脳死を人の死として、移植医療がどんどん進歩しているからといって、
日本が、脳死をなかなか受け入れられないままで、ドナーが少なくて、
移植が進まないから、助かるはず命が助からないからといって、
それは・・・・
悪いことなんだろうか。
某宗教エホ〇の教えで、輸血は絶対いけない、とあって、
子どもが輸血をできなくて死んでしまうという例を、
それを私たちは、おかしいとか、信じられない、とかいうけど。
そもそも
そもそも
臓器や血液や皮膚や角膜やなんやらを、
あげたりもらったりする、っていうのは、
自然の摂理に合ってないんじゃないかと思う。
そう、
不自然。
動物はそんなことしない。
親子とか、兄弟とか、親戚とかで、
腎臓とか肝臓とか移植するのもよくある。
なんか、それが当然、ていう風潮も、
本当はおかしいんじゃないかと思う。
なんとか生きてほしい、という気持ちと、
自分の臓器(の一部)を提供する、ていうのは
必ずしも一致しなくて、
どうしても、できない、という人もいて当然だと思うんだけど。
一方で
心臓病の子供のために募金を募って、アメリカに行くことは、
いろんな批判にさらされるし、詮索されるし、
余りに大きな金額なのでその使い道に疑惑の目が向けられたりする。
数年前は豪邸に住むNHK勤務の夫婦(二人の年収計4000万とか)が募金を募ったことで、
「まずは家を売れ」とか「それだけ収入あれば払えるだろ」と炎上して、
途中から自己資金3000万円を募金に組み入れることになった。
また、移植後に亡くなった子のために、
事務局が残ってる募金から「星の命名権」を買っその子の名前を付けたということで問題になった。
会計報告をしっかりして、残金をほかの会に寄付するところもあれば、
いつのまにか会自体が消えていて、大金が不明のままのところも。
いくつかの支援団体もあるが、海外移植すべてを統括するような組織はないのだ。
(だから、最初に書いたように、厚生労働省がどういう立ち位置なのか不思議だった)
そういえば、全く元気な甥を心臓病だとでっち上げて海外移植の募金を募った伯母が詐欺で逮捕されたこともあった。
わりと簡単に善意の寄付が集まるから、
問題もたくさんあるんだろうと思う。
この新聞記事の1歳の女の子は、
一歳にしてすでに4回も手術をしてきたとか。
それでも、海外まで行って、誰かの心臓をもらいたいというのは、
必死なのはわかるけれど
親のエゴなんじゃないかとさえ思えてくる。
もちろん、子供の命は尊くて、何ものにも代えられない。
でも、受け入れなければならないこともあるんじゃないかと思う。
日々進歩する医療や科学技術。
どんなことでも叶いそうだけど、
神の領域もあると思う。
できれば、
脳死者からの移植ではなくて、
精巧な人工心臓や、ips細胞による再生医療で、
安全な「自分の」心臓で命がつながるようになればいいのにと思う。
『昔は脳死者からの移植手術とかあったんだって』なんていう日が来ることを。
なんか、異常に長々書いてしまった。
私の、超絶勝手な意見です。
これもまた冷たいと思われるかな。
最後まで読んでくだっさったかたがおられたらありがとうございます。
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